<2019年10月のひとりごと>
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51年も前のはなしだが、1968年12月29日、京都で開催された第19回全国高校駅伝に三重県代表として出場したことがある。
私が三重県立上野高校2年生の時で、5区の3K区間を任された。
その時、エース区間の1区を走ったのは町野英二先輩であった。
町野先輩は日体大に進学され箱根駅伝の優勝メンバーとして活躍された後、高校の教職に就かれ、宇治山田商業高校を経て
生まれ故郷伊賀市の上野工業高校に陸上部顧問として就任された。
そして、全く陸上界で無名だったチームを全国高校駅伝の出場常連校に育て上げ、大学や実業団で日本のトップクラスとして活躍する選手を何名も輩出された。先日行われたM G Cで優勝した中村匠吾(駒沢→富士通)もそのひとりである。
中村選手は優勝後のインタビューでこう語っている
「激流のなかを流れる木の葉のように石にぶつかることもなく淡々とレースを進め、最後のポイントで一気に勝負しなさい、と町野先生から教えられていたレースができました。
先生が背中を押してくれました」
町野先輩は2012年6月、肝臓癌で帰らぬ人となりました。享年62歳。
毎年、年末に京都で行われる全国高校駅伝の応援に51年前都大路を走った仲間が集まることになっています。
母校は出場しませんが、町野先輩の陸上哲学が今も脈々と生き続ける伊賀白鵬高校(旧上野工業高校)の応援に。
私は高校を卒業してすぐ実業団で陸上を続ける選択をし、17年後の1989年に初めて指導者となりました。
その頃からづーと町野先輩の背中を見て、追いつきたい、追い越したい、と常に思ってやってきました。
今もその想いは変わらず、私の陸上に対する原点となっている。
今年も町野先輩に会える日が近づいてきた。
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